『ノルウェイの森』村上春樹 著講談社文庫※ネタバレを含むかもしれないのでご注意ください。
しかしまさか30歳過ぎて、ノルウェイの森に初めて触れるとは思ってもみませんでしたが、
いや~、学生時代に読まなくて良かった!w
本を読んだ後の余韻は、人それぞれのカタチがあると思うのですが、
まいねの場合は、自分の頭の中にある言葉が、読んだ本の文体で組み上げられて、
まるで自分が本の中の世界と、現実世界の間(ないしはどちらでもない場所)にあるような
感覚になり、それを楽しんでいます。
各種の本の余韻の中で、詩的な文章を読んだ後の余韻ははっきり言って嫌いでした。
というのも、まいねは基本的にどネガティブなヤツでして、
そんな人間の頭の中の言葉を並べて詩など作ろうものなら…お察しなわけですw
これがSFだったり、時代小説なら、自分の脳みそが宇宙に打ち上げられて
タコ型宇宙人になったりだとか、刀でバッサリ切られてオチが付くんですけど(!?)、
詩の場合、どうしても逃げ場がないんです。汚いものは汚くて、悲しいものは悲しいのです。
この作品に出てくる登場人物たちは、どこかか決定的に歪んだ、不完全な人間たちで、
それでいて、「これ、俺のことか!?」と思うほど共感してしまいます。
自分の不完全さを自覚し、何とか変えてみようと思ってみたり、
諦めて妥協しようとしてみたり、それでも結局うまくいかなくて・・・
生と死と、性と精子に濃く彩られた彼らの生き様は、ともすれば生々しくなりそうなのに、
もう完全に無機質的な印象を受け、それが自分のネガティブさとシンクロするんです。
でもいい加減まいねも大人なので(?)、多少は冷静な目で見ることができます。
本著の中で何度か
”生と死は別々にあるのでなく、生は死を内包する”
といった旨の文が出てきます。まさにそのとおり、
生きるというのは刃物の上に豆腐を置いたような状態。
下手に動こうものならスパッと切れるし、
動かなかったとしても、結局は自重によっていずれは崩れ去ります。
いわゆる普通の人間は、この”動こうが動くまいがいずれは終わる”ことについて
半分目を閉じて生きていると思いますが、
彼らは、このことをあまりに強く意識しすぎているように感じます。
言葉を選ばず言えば
「もうちょっと自分勝手に(自分だけを幸せにするように)生きて良いのに」
と思わずにいられません。。
もう一つ、彼らはあまりに”言葉を大事にしすぎている”気がします。
主人公ワタナベは大事な思いを伝えるとき、その場の言葉よりも
手紙という手段に頼っている感じがしますし、
ヒロイン直子自分の思いを言葉にできないことに深く悩み、
自分を追い込みすぎているような印象です。「言葉より大事な伝達手段だってある」わけで、
言葉を積み重ねなくても、泣いたり笑ったり、
触れ合ったり(直子はそれができないところがちょっとツラいところですけど)など、
他に方法もあったんじゃないのかな、と思わずにはいられません。
…とはいえ、まいねも昔は言葉を大事にしすぎるあまり、言いたいことも言えなきゃ
他人に言うことに一々傷つくタイプであり、だからこそ冒頭で述べた
「詩的な余韻が嫌いだった」ということになるわけですが、まぁそんなものは
暗い夜道を歩いていて、目の前に何か影のようなものが見えて
「わっ!」
と反射的に叫ぶに近い、あまり意味のない言葉を発しているだけです。
ある程度生きること、死ぬことを冷静な目で見ることができる大人にこそ、
おススメの作品と思います。
(あとちょっと工夫すれば、彼らもっと充実した生き方ができるだろうに!)
と、親心みたいなものも湧いてきますしw
因みに、同題の『ノルウェイの森』という曲をビートルズが歌っていて、
これを聴き、本著を読んで、また曲を聴いてみると、
より深く楽しめるのではないかと思いますよ(。-`ω-)b
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