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まいねじゃ!

青森出身岡山県民「まいね」のシングルライフ。

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【雑記】「我思う故に我あり」と叫びたい

例の、語りたい病気が出ちゃっただけなので、面倒なヤツ嫌いな方はスルー推奨。。



キッカケがあったかどうか覚えていないのだけれど、
ここのところ悩んでいたことがありまして。

まいねは昔から、長男ということもあってか”しっかりした子”であることを望まれていて、
所謂駄々をこねるとかいったような感情を爆発させることがありませんでした。
親はよく子供に「泣いてちゃ分からないでしょ?ちゃんと説明して」なんて言いますが、
そういわれたまいねは律儀に、泣きたいほど悲しいときは何故悲しいのか、
飛び跳ねたいほど嬉しいときは何故嬉しいのか、
一々感情を言葉にしようとするクセがついていました。

そんなこんなで言葉に寄りかかって過ごしていた幼少期~青年期。
とはいえ言葉に頼ると、他人が何となく言ったことに一々傷ついてしまうことも多々あって。
そんなこんなでモヤモヤしていたある日、『涕泣史談』という本を読んで感銘を受けました。
ざっくりかいつまむと、現代(とはいえ昭和文学ですが)の人間は言葉のニュアンスに
寄りかかりすぎ、”泣く”などといった、言葉にできない思いを伝えようとする行為を
蔑ろにしているのではないかといった内容です。

自分自身、例えば誰かに好きな気持ちを伝えたい時、それは言葉にするのは
すごく難しいのだけど、100の言葉を積み重ねてみるとか、
何か素敵な喩えをすることで”正確に好きな気持ちは伝わる”と思っていたフシがあって、
『涕泣史談』を読んで自分の底の浅さというか、そういったものを指摘されたような気になって
大いに反省し、つい最近まで所謂”言葉嫌い”になっていました。

とはいえ。

感情を爆発させずに30年以上生きてきた自分が、いきなり言葉に頼らずに
”上手に(自然に)”泣いたり笑ったりできるかというと、全然できなくて。

とはいえ。

はっぴぃさんのところなんかで、ちょっと酔って気持ち良くなって(w)語ったりするとき、
びっくりするほど上手く言葉が出てこないし、自分では会心の喩えだと思った言葉なんかも
「???…つまりはこういうこと?」
といった感じに喩えを要約された上に、それは自分の言いたいこととは全然別だったりして、
要するに言葉すら上手く伝えられていない。

感情を伝える、手段がない。

最近そんなことを考えるようになって、
遊びに出ているときも息苦しさを覚えるようになっていました。


話はちょっと変わり、今なら時効(!?)と思うのでぶっちゃけると、
まいねには物書きになりたいと思っていた頃があり、
就職活動でも雑誌社などを数社受けてみたことがあります。そうすると当然選考では
何か記事を書いてみるといった課題を出されるわけですが、
これがことごとくダメだった。合否以前に自分で読んでみてあまりにつまらなく、何よりも
「記事一本書き上げるだけのモチベーションも、世の中に伝えたいことも、自分の中にない」
ということを思い知ったので、その方面での就職をすっぱり諦めたんです。
そのこと自体に後悔はなく、妥当な判断だと今でも思います。ただ、

伝えたいことがないはずなのに、なぜこんなに「伝わらない」と悩むのか?

感情を伝えるには言葉にしろ行動にしろ、その場に適した「お作法」のようなものがあって、
それを適切に行えると”普通の””社会に適合した””大人”と見なされる風潮があります。
「泣いてちゃ分からないから説明しなさい」
と言っていた人が一転、お葬式の時なんか
「いや上っ面の言葉はいいから(泣けよ)」
と言ったり。そのことを否定しないし、まいねにもそれなりに”立派な大人”になりたいという
思いはあるから、ご飯を食べて
「何かよく分からんけどおいしー!」
とならないよう、ある程度どういう風に美味しいのか説明できるように勉強するし、
適切に泣いたり笑ったりできるよう、映画などを見て心と表情を動かす練習をしてみたり。

そしてそこに投げかけられる
「いや、君の言ってることは正しいんだけどさ。」
もう、何やねん!とww

”正しくあろうとする”ことが間違いであるのなら、”間違いであろうとする”ことが正しいわけで、
そうすると”正しくあろうとする”ことになってしまうからそれは間違いということになります。
それなら前提としていた”~であろうとする”ことが良くないのかと、
何者でもければいいのかと思うけど、それって根本的に無理…なはず。
それは、”無”という概念を考えたときにそれは”無”ではない(無が在るから)という
ほとんど言葉遊びに近い、でも感覚的に自明(という論理展開が理系のそれじゃないねw)な
論理によるものなのだけど、生命活動をし、何らかを考えている私たち(人間)は
この世に生まれてきて絶対に、”何者でもない”ことはないと思います。

そこでふと思い当ったのです。

(ああ「Cogito, ergo sum(我思う、故に我あり)」はそういうことか!!)

デカルトが言ったとか言わないとか言われる上記の言葉(どっちだよ)。
”私”というものが存在するかどうかを考えるとき、”私”は存在しないのではないか?と
疑っている自分の存在もまた否定できない。私という人間がこの世にいて(表象)、
そこから私が存在するかどうかを論ずるのは間違いを伴うよとかナントカ。
小難しく論じられるこの命題、実のところ

「私はこの世に生まれてきて生命活動をし、何らかの感情がある。
 故に、その感情を(正否とか望まれてるかなどさておいて)吐き出したい衝動がある。
 だから、私は叫んでみる。”我思う、故に我あり”と」

ってな意味なんじゃないかと。だから、吐き出してみた。

「私は感情を吐き出せないという思いを抱え込んでいますよー!」

と。


今頃デカルトが「俺が言いたいのはそんなことじゃない」と
草葉の陰で臍をかんでいるのかもしれないけど。。

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プロフィール

HN:
まいね
性別:
男性
趣味:
食べ歩き、コーヒー、ギター、      自転車旅、ボードゲームなど
自己紹介:
「まいね」とは、青森の津軽弁で
「ダメ」という意味。
怒られていても怒られている気がしない、
ダメなのに、ダメな気がしない・・・
そんな錯覚を起こさせる柔らかい語感がステキです。