『箱男』安部公房 著新潮文庫※以降、ネタバレを含むかもしれないのでご注意ください。
のぞき窓を開けただけの段ボールを頭からすっぽりかぶり、街を歩き回っては色々なものを見つめる箱男。”ぼく”や、天性の覗かれ役である看護婦や、贋箱男など、人間関係や場面が万華鏡のように目まぐるしく転換し、
多彩なトリックで思考に揺さぶりをかけてくる、独特な世界観を持つ長編ミステリー。この小説を読んでいて、何年か前に岡山で体験したある夏の出来事が頭に浮かんだ。
とある週末のお昼時、和食の美味しいお店が近所にあるというので訪れてみた。
店は民家を改装した感じの内装で、扉を開けてすぐ左手にレジがあり、
正面に上がり框があって、その先の和室が食事スペースとなっている。
その日法事でもあったのか、席は喪服の集団で一杯となっており、
「ごめんなさいね、今日は一杯で入れないんですよ…」
とお店の方の声。それはそれで仕方ないことなのだがこのお客さんたち、
まいねが店に入ってからずっとまいねの方を見ているのである。
想像してみてほしい。
和室に座る喪服姿の老若男女が、身じろぎ一つせず自分の方を見ている光景を。
恥ずかしいような、腹立たしいような気持ちもあったが何より、ものすごい不気味さがあって
まいねはそのお店を逃げるように後にした(喪服のせいもあるだろうけどね)。
もちろんその後、そのお店には伺っていない…
…ということを話したら「それは岡山の県民性」なのだそうだ。
外部の人間に対して割とはっきり警戒心を持つ(という印象)の岡山県民。
ある意味、草食動物の習性と似ている気がする。近くに肉食動物がいるときに、
すぐに遠くへ逃げようとするよりは、じっと見て相手が変な動きをしないかを
観察するアレだ。
それにしても”見る”というのは不思議で難しいものだ。
とあるAとBがお互いに視覚的に認識しているとき、AがBを見るのと同じように、
AはBに見られているのであって、立場はそう変わらないはずなのに
そのニュアンスによって不快度が大きく異なる。不快度を決める大きな要素は
「見ることのパワーバランス」「匿名性」「距離感」と思われる。例を挙げると、
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AとBとが恋人同士であるとき、見るパワーはほぼ一緒で「見つめあう」という
非常に微笑ましい行為となる。…傍から見てるこっちとしてはアレだけど。
AとBとがヤンキー同士であるとき、お互いに同じくらいの力強さで見ているが
「メンチを切りあう」といったようなきな臭い状況である。お互いに不快感MAXであろう。
Aが親、Bが子である場合、Aが見るパワーはBより強く「見守る」という状況であり、
そこに不快感はほとんどない。Bが反抗期の場合は例外であるが。
AとBとが赤の他人で、AがBを強く見ている場合、
これは「(何か知らんが)Bが見られている」という状況で、不快感が発生してくる。
距離感などによりBがAに見られていることの意識が弱い場合は
「覗かれている」に進化(?)し、犯罪として扱われることすらありえる。
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そこで箱男であるが、箱を頭から被り、自分の殻に閉じこもりたいだけであれば
特に何の工夫もしなくて良いのであるが、わざわざ箱に覗き窓を開けている。
聞いたり、嗅いだり、触れたりする他の感覚に頼らず、視覚のみに特化しており、
”見る”パワーは非常に大きい。そして箱を被っている故に中の人間は強い匿名性を持つ。
すなわち箱男とは究極の”覗き役”であって、これが目の前に現れただけで不快であることは
想像に難くない。
その一方で、人は基本的に「覗く立場にありたいのでは」と本書は言い、確かにそうだと思う。
テレビや演劇なんかが分かり易いと思うが、どんな悲しみも切ない話も、
結局は液晶の中、舞台の上での出来事であり、明確な境目、距離感があるから楽しめるのであり
逆に言えば哀しみや切なさが自分に近いほど、楽しめなくなる。
本書は(とりあえずは”覗く/覗かれる”というその行為に関して)、
「一般的に人は、覗かれるのはすごく嫌なのにもかかわらず、
覗く立場でありたいと願っている」
という醜い一面を切り取っているように思える。だからどうという結論は出ていない。
”終幕のベルも聞かずに、劇は終わってしまう”からだ。
ただ一つ言えるのは、この作品を知ってしまった以上、
もう段ボール箱を何の感慨もなく見過ごすことはできないであろう、ということだけだ。
[2回]
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