<例によって付箋が付いているのはごはんが美味しそうなシーン>
現在しゃばけシリーズとして発行されている
第1巻『しゃばけ』~第12巻『たぶんねこ』まで、番外編を除いて読破しました。
全体を踏まえての雑感などを書いてみます。
※以降、ネタバレを含むかもしれないのでご注意ください
江戸有数の廻船問屋兼、薬種問屋の長崎屋には、生きてるものなら人だけでなくそこらを歩く犬猫ですら知らぬ者はいない、ってほど虚弱病弱な跡取り息子の一太郎がいる。実はこの一太郎、祖母が有名な狐の大妖”皮衣”であるためか、普通の人間には見えない妖たちの姿を見ることができる。その特異な体質ゆえか一太郎の周囲に起こる様々な事件を、両親、皮衣が孫を護るために遣わせた犬神の佐助、白沢の仁吉をはじめ、山盛り砂糖に蜜をかけたように一太郎を甘やかす面々に負けず(!?)、友人の栄吉や様々な妖怪、付喪神たちと一緒に乗り越え、少しずつ成長していく物語。しゃばけシリーズを全編通して読んでみて、読後感を乱暴に一言で表すならば、
(妖などのファンタジー要素を含むものの)「長い日常系アニメをみている感覚」です。
起.何か事件が起こり、
承.一太郎が頑張ってみようとするも病気などで思うように動けず、
転.妖たちに知恵を貸して動かし、
結.事件を解決して一件落着
基本的にはこの流れで短編が繰り返されています。物語が進むほどに、
それぞれのキャラクターの性格がはっきりしてくるため余計に、
キャラクターたちがわちゃわちゃと動き回っているだけに見えてしまいました。
正直言うと、個人的には第6巻『ちんぷんかん』の中の「はるがいくよ」という短編が
一番好きで、それ以降は(だるいな…)と感じるところもありました。
でもそれを転じて言うなら、妖怪や神といった非日常を、
読者の日常とほぼ変わらないレベルにまで落とし込んで描いている、とも言えます。
第8巻『ころころろ』の中の短編「物語のつづき」の中で、生目神(いきめがみ)と
”神とは何か”
という非常に哲学的な問答をするシーンがあります。そこでの答えを要約すると、
「人に対して恵をもたらし、それでいて犯したり食らったりもする」と同時に、
「それなりに思いを抱えている」存在であると描かれています。
これはすなわち<他者から見た自分>と<自分で見た自分>によって
<自分>が形成されていて、つまりは
”神も人間も(書かれてはいないけど、きっと妖も)同じような存在なのだ”
と畠中さんは言いたいのかな、と受け取りました。
故に神や妖は、人とは違う大きな力を持っているにもかかわらず、
認識している人間がそれを否定すれば、消し去ってしまえるような儚い者でもあります。
一太郎は非常に病弱で、周りの力がないとまともに生活できない身でありますが、
だからこそ(周りの者がいなくなったら自分は生きていけるのか?)と常に危惧し、
自分の力でやってみようと頑張って、結局は倒れてしまい周りに助けられるんですが、
何度もそれを繰り返す中で周囲に感謝したり、どこかで甘えがあったのではと自分を疑ったり、
失うことをすごく怖がったり、ほんのちょっと自信を付けたりします。
#第9巻『ゆんでめて』などはこの感覚が顕著ですね。
これって、普段私たちが日常的に感じていて、
もはや意識すらしていないような機微だと思うんです。
歯の根の浮くような愛の言葉を、ラブソングの詞のせいにして相手に伝えるのと同じように、
「他人の役に立ちたい、自分の足で立ちたいと思い、
その中で何度失敗して、間違えて、周囲に迷惑をかけたりしても、
自分と他人の思いを否定しなければ、”皆で生きて”いけるんだよ」
と、クッサいセリフ(!)を妖たちの陰に隠して、伝えている作品だと思いました。
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