『石蹴り遊び』フリオ・コルタサル 著(1963初版)土岐恒二 訳(1995年(集英社版)→2016年(水声社版))水声社※以降、ネタバレを含むかもしれませんのでご注意ください。
第1部(第1~36章)”向う側から” 舞台はフランス・・・ 齢四十過ぎ、作家志望。文学・音楽に堪能で、 衒学的な言葉を使い、<クラブ>の仲間たちと激論を交わし時にはひっかき回し、 自己分析だけはご立派ながら、行動は全く伴わないメンタルこじらせ系だめんず(!) オラシオ・オリベイラと、 歌手を目指し、どこかミステリアスな雰囲気と、一児の子持ちラ・マーガとの 愛の日々と別離までを描く。第2部(第37~56章)”こちら側から” ラ・マーガと別れたオラシオは、彼女の影を追いながら故郷ブエノスアイレスに戻る。 旧友のトラベラー、その妻タリタと再会し、しばらくニート生活(!)。 やがては親友たちの口利きもあって仕事に就いたりもするが、 徐々に心を病んでいき、精神病院に入り、やがて自殺に至るまでを描く。第3部(第57~155章)”その他もろもろの側から” 本著を書いたモレリ老(=フリオ・コルタサル)のメモ、 第1部、第2部では脇役だった人物たちの言葉、 様々な本の引用などがランダムに並べられた ”『第一の書物』としては読み捨てても構わない”、胡乱な文章の集まり。何か月もかけて本著につきっきり、『第一の書物』『第二の書物』と2回通読。
本著の構造のせいもあって、本が大分くたびれるまで読み込んだが…結果から言って、
「空前絶後の読書体験ができるぞ!一生に一度は読んでおこう!」
追いかけている読書ブロガーさんの紹介があり手に取ったが、
正直4,000円という価格設定には、最初は日和かけた。
『第一の書物』を読了後(因みに第1、2部と読んでから、3部も一応頭から通読した)も、
(んー、比喩表現が多すぎて内容が分かるような分からないような…
読者レベルが高くないとこの本の内容も価値も分からんのかな?)
と思い、『第二の書物』途中では
(なるほど、この本の構造にはそういう狙いがあるのね。値段とトントンの面白さかな)
『第二の書物』読了後は
(ヤバい、こんな読書体験今までなかったし、多分これからもない…
似たようなものがあってもそれは”『石蹴り遊び』みたいな本”にしかならないだろうな。
読んで良かった!!)
と思えるほどだった。
最悪、この本の面白さが理解できなかったなら(まいねも理解しきれたとは思ってないし)
「4,000円出してもつまらん本はつまらん」
ということ、そして恐らく今後、一冊4,000円も出して本を買おうとは思わないだろうから
人生勉強として高くはない出資なのではないだろうか。
#ぶっちゃけ、冒頭のあらすじに書いたオラシオが作家志望とか、ラ・マーガが歌手志望
#ということすら、『第二の書物』読了後に、訳者解説を読んで知ったw
閑話休題。
冒頭からちょいちょい出てきている『第一の書物』『第二の書物』という言葉だが、
誤解を恐れず言えば、本著は一冊の本でありながら1冊目、2冊目、
さらに読者のレベルとセンスによっては第n冊目の本として読める仕掛けになっている。
『第一の書物』は、いわゆる”普通の本”として頭から順に読んでいき、第1~56章、
すなわち第1部と第2部を読んで第3部を読み捨てる形。
冒頭のあらすじにかいたような内容で、
(あー、オラシオも(この文章も)七面倒臭ぇな!)
という感想しか出てこない(w)。
主人公オラシオは色々な面で知識豊富(悪く言えば頭でっかち)で、
とはいえ案外考え事などしながら作品に触れているので、
深く理解しているわけでもないのに、他人の知識の浅さを小馬鹿にし、
「そうやって”自分は自分、他人は他人”とか、実感でもって受け入れてしまえるのが、
ある意味幸せそうでうらやましいですわ(意訳)」
みたいなことを平気で言い放ち、場を険悪な空気で満たしてしまう。
#でもオラシオのこういうところに同族嫌悪しちゃうんだよな・・・
このことはやがて、トラベラー、タリタ夫妻の家庭をぶち壊してしまうことにもつながり、
流石に反省するのだが…彼のこの精神は『第二の書物』での大きなカギにもなっている。
『第二の書物』は、第1部と第2部の中に第3部の断片を挟み込んだりしながら、
各章を作者の「指定表」に沿った順番に読み進めていく形。
#作中に出てくる”ブラウン運動”を想起させる読み方、とも言える。
何というかもう…『第一の書物』と同じ本とは思えないほど、
別のテーマを持った作品が出来上がる。
本著『石蹴り遊び』にて作者がやりたいこと、それは
「言葉という曖昧なものに塗れた”文学”による、”文学”への逆襲」
作者の言葉に対する、そして”文学”に対する嫌悪。とりわけ、
(作品に込めた真意を分かってほしい)という「快楽主義的作家」、
(作品で自分を感動させてほしい)という「受動的読者」。
この図式をぶち壊してやろう(!?)として、メタフィクションの形式をとり、
読者を作中に能動的に入り込ませる”共犯者”に仕立て上げようと試みる。
「読者のいる世界」と、「作品の中の世界」がそれぞれあり、それはあたかも
石蹴り遊びのための各マスが、それぞれ別個にある状態のよう。
そして作品が、オラシオの行動が私たちに語り掛ける。
”こっちから手を伸ばすから、そっちからも伸ばしてくれ。そいつをつないで橋をかけよう”
オラシオたちも(モレリが書いた)作品=本著を読んでいる。
オラシオ以外は本の構造に対し一定の評価をしつつも、恐らく多くの人間がそうであるように
(いや、でも自分は自分だし、君は君だし…)
という実感でもって存在を確信してしまうが、オラシオは違う。
(この世界全体を見通して、普遍的に存在する”誰か”みたいなのがいるのでは)
モレリの考えに触発されてか、自身の妄想を加速させ?、
まるでその”誰か”を受け容れる器にでもなろうとするかのように、
自分が自分であることを疑い始める。
オラシオの手引きによりオラシオになった私…では、ここにいる私とは誰なのか???
『第二の書物』は、第131-58-131-…章の無限ループに陥り、
読者の好きなタイミングで読み終わることができる。
個人的に、58章の隣の57章に配置された文章に、意図的なものを感じた。
グレゴロヴィウスがオシップに対して話す夢の話。
夢の中の世界から、洗面台に吸い込まれ、様々な老廃物に塗れた汚い管を通り、
いずれは”自分自身”に戻って行けるものと希望を持っていたが、
それからはどんどん遠ざかっていく・・・。
指定された章から、ほんの少し目線を横にずらすだけで見える位置に、
「さぁ新しい世界(≒読者の考える『第nの書物』)に飛び込んで行け」
と言わんばかりのこの文章。
もう、橋は架かってしまったんだ。
誰かに指定された道筋じゃなく、気ままに”この世界”を進んでみようか。
メタフィクション作品自体、そんなに多く読んでいるわけではないけど、
そのジャンルに限定せずとも傑作であることは疑いようもない。
大事なことなので2回言うが、こんな読書体験は他にない。是非読んでほしい。
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