主題のとおり、9/1は防災の日ということで、2年半前の東日本大震災についてちょっとだけ語ってみようと思います。
まずは、震災直後~数日後の近しい人の安否確認までのお話です。
<震災当日のこと>
2011年3月11日は、まいねは横浜に住んでいまして、地震の瞬間は横浜のオフィスビル3Fにいました。最初の余震がぐらっと来た瞬間は「お、いつもの地震よりデカいなこれ」みたいな感じでみんなさほど動揺していませんでしたが、本震がきてビル全体が停電になったあたりから
「これは只事ではない」
と、軽口をたたいていた面々も机の下に潜って身を強張らせていました。
揺れが治まって数分、避難訓練でやったとおりに、みんなヘルメットを装着、軍手をはめて外へ避難しました。やはり練習はしておくものだなぁと、揺れの治まりとともに落ち着いていく頭の中で考えたのですが、訓練と違うのは階段の暗さ。窓もないビルの階段は停電により完全な真っ暗闇になり、とりあえず設置された数個の懐中電灯の明かりを頼りに、手探りで階段を下りていくのは、高々3Fとはいえ結構恐怖を感じたのを覚えています。
外に出てから幹部の話があり、当然業務を続けることはできませんので、解散という形になりました。駐車場に集まった全社員は、家族に連絡を取ろうとする人、ワンセグを使用してニュースやラジオから情報を得ようとする人など様々いました。近くで火事があったのか、煙の臭いが辺りに漂っており、不安を掻き立てられました。
さて、ここで帰宅するか否かという選択を迫られるわけですが、まいねの家はオフィスから10Kmほどの場所にありまして、山を1個はさむので結構大変ではありますが、当時は大変怖がりの彼女と同棲しており、2時間ほど歩けば帰れるだろうという予想のもと、帰宅することにしました。地震当日から少し経ってから、専門家らが
「地震の時にむやみに家に帰ろうとするのはかえって危険。長距離歩くのはいろいろ準備が必要」
といい始めましたが、その時はそんなこと知りもしませんでしたので、スーツに革靴、ビジネス鞄を片手に家への道を歩き始めました。まいねと同じように帰宅を決心した人の列、道路には車の列ができており、一種異様な光景でしたね。
歩いて1時間弱ほどで山に差し掛かって、あたりは暗くなり疲れで脚が重くなってきました。お腹も空いてきましたので、ちょっと休憩がてらにコンビニに寄ろうとしたのですがコンビニも停電で真っ暗ですし、買占めにより商品はほとんどない状態でした。
「こうなりゃまっすぐ家を目指すしかないな」
軽くストレッチをした後で、家路を急ぎました。
結局、慣れない道で若干遠回りしたこともあり、3時間ほど歩いて家に到着し(到着時刻は20時前後だったと思います)、彼女と無事を喜び合いました。まいねの家は独自の発電施設を持っている病院の近くで、電力の回復も比較的早かったのが幸運でした。さっそくNHKニュースなどで情報を集めつつ、携帯電話では連絡が取りにくいということで、腹ごしらえをした後すぐに、家族や友人に連絡を取るため近所の公衆電話へ10円玉を大量に握りしめて出かけました。
<震災後の安否確認のこと>
震災の時に一番困ったのが、家族や友達の安否確認ですね。両親が住んでいる青森は比較的安全ではありますが、確認できないことにはやはり不安です。脚の悪い祖母もいますし、何らかのけがなどをしていることだって考えられます。加えて、テレビで仙台や福島の惨状を見て、親友や仲の良かった同僚が住んでいる場所ですのでそちらもかなり心配でした。
友達にはメールを送信、災害掲示板をチェックしつつ、家族には公衆電話から何度も電話を掛けました。電話線が切れていたということもあり、実家に連絡が取れるまで1週間かかりました。友人や同僚たちがみんな、とりあえず無事に生きていることを確認できたのがさらに3日後でした。最後のメールを受け取ったとき、疲れと安心感でその場にヘナヘナと座り込んじゃいましたよ。。
とりあえず今回はここまで。次回は、震災の後のことを中心に書いてみようと思います。
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